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九谷焼作家 山岸 大成さん

登録日:2023年8月2日

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したいこと、能美市だったら叶うかも

九谷焼作家

山岸 大成さん

表現とは、考えること。

 普段、何かの折に言葉にする内容と、本当の自分の思いとが、なんだかずれていると感じたことがある人にとって、言葉以外で表現ができる術を持つ人のことを、ちょっと羨ましく思うことがあるかもしれません。
 作品『神々の座「天叢雲(あまのむらくも)」』が第9回日展(2022年)で内閣総理大臣賞に輝いた山岸大成さんにとって「表現」とは、自分が感じていることを作品として提示するために、「考える」という行為そのものが表現であることを感じます。
 「書くことは人を確かにする」と語ったのは、英国の哲学者、フランシス・ベーコンですが、ものを作ることにおいても同じことを思わせる、お人柄です。

 

山岸家の系譜から。

 私の家の屋号は「木挽」と言います。木を挽く木こり。これは私の推測ですが、先祖は白山麓で山の仕事をしていました。木こりや炭焼きなどです。その頃、幕末ぐらいから昭和30年代ぐらいまでは薪窯でした。その時代に窯に使う薪などを伐り出し運ぶ、そういう仕事だったと思います。ある時、焼き物の仕事を見て自分たちでもやりたくなり、兄弟で山を降りて焼き物を始めたのが明治初めの頃で、おそらく初代山岸政山というのはその孫で、そのまま繋いでいったのだと思います。
 

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 父は男ばかり五人兄弟の五番目で、長兄とは13歳も離れていました。父は祖父の四十代の時の子で、長兄がこの仕事をやろうと思って親について九谷の道を志したのですが、心臓の病で二十代の中頃に亡くなってしまいました。二番目、三番目は、長兄が家業を継いだので、その時は全く違う仕事に就いていて、四番目は戦死しています。それで、その時に祖父がやはり誰か一人には継いでほしいと思い、末っ子の父に夢を託したのだと思います。しかし、戦後になって、二番目が繊維関係の仕事から、やはり家の仕事をやりたいということで家業を継ぎました。そのため、うちの父は分家としてここに出てきたんです。父の兄は既に亡くなり、うちの父自身も97歳になるんですが、たまに絵付けをしています。3年ぐらい前までは県の展覧会などに出品していました。今でも一応引退したと言いながら、時々土を触ったり、筆を持ったりはしています。

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山岸 政明 作 「器」(47.0×47.0×14.0cm)「美学の系譜」山岸家5人展より

 

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山岸 政明さん
1926年 誕生
1956年 日本現代工芸美術展入選(以降10回連続)
1966年 日展入選(以降25回連続)
1974年 現代工芸美術家協会会員
1975年 第1回箱根彫刻の森 日本の工芸展招待出品
1976年 日展会友
1978年 現代工芸美術家協会 評議員
1981年 第20回 日本現代工芸美術展 特別会員賞
1982年 日本現代工芸美術展 審査員
1991年 現代の世界陶芸展招待作品
2022年 石川県現代美術展通算55回出品


 

 私の場合、子どもの時はこれと言ってやりたいことがあった訳ではないんです。ただ、子どもの時から父がそういう仕事をしていて、自分の出品している展覧会などが巡回展で金沢へ来ると、私をよく連れていったんです。それで小さい時から焼き物だけではなくて、洋画や日本画も含めて、美術展を見ていたということはありました。子どもの時は父親の仕事とある程度同じ事をやりたいみたいな、何となくそういう気持ちを持っていますよね。だからそれをやることができた私は、幸せだったと思います。
 

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山岸 大成 作 「陶筥 色絵薔薇」(19.0×10.5×15.5cm)「美学の系譜」山岸家5人展より

 

ものづくりへの意識。

 勉強よりも遊ぶのはもちろん好きだったんですけど、学校での写生大会などは近くの神社やお寺の境内で行われるので、場所が和田山だったりすると、これはもう遊びにはもってこいですよね。写生なんて1時間そこそこで仕上げてしまって、仲間と山の中を走り回っていました。だからそんなに絵が特別得意という意識はなかったです。ただし、手先は器用だったので、中学校の技術の授業で作ったものは、先生が「お前、これもらっておくからな」と見本用に持っていくんです。流石に50年以上も前のことなので残っていないと思いますが、いつも何か作ると見本にされたくらい、ポスターや技術工作などは本当に好きでした。
 高校に入った時に父が「お前、将来何をするんだ」という話をする訳です。僕はどちらかと言うと、人好きで人の中に混ざって、何でもすることが好きだったので、「こういうこもってするような仕事はやりたくない」って言ったんですよ(笑)「うん。それはわかるけれど、まあせっかくだから、もし挫折して家へ戻ってきても、少しは役に立つようにデッサンぐらい習っとけ。無駄にはならんから。」と父に言われて、「いやいや、そうはいかないよ」って思ったのですが、押し切られて、渋々デッサンのアトリエに通いました。
 そんな経緯で金沢美術工芸大学に行ったのですが、私の時代には工芸デザイン科というようにデザインという名前が付いていて、工業デザイン、商業デザイン、そして工芸デザインと3つだったんです。2年の中頃まではデザイン科としてやるんですね。例えばレタリングなどをやると手先が利くので、恐らく一番いい点数をとっていたと思います。当時のデザインの技術的な部分については大体が一番なんですけど、ところが創造力はないんですよ(笑)そういう調子でした。
 

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 それと面白かったのは、2年生の後期から各デザイン科から離れて工芸でも鋳物や染織、漆を専攻というように分けるわけですね。私の場合、焼き物を専攻しました。そこで最初に作ったものを上級生が見て、「へぇっ、何でこんなことができるんや、どうなってるんや」って言うんです。すぐにものを作りだしてもそれなりのものになっていたんだと思います。恐らく子どもの時からこういう環境で育っていたので、知らず知らずのうちにそういうものが体の中にあったんですね。先輩達は勉強をしてきているけれど、私はその素材を使って実際にやるのは学校では初めてにもかかわらず、普段やっていたので、当然できるわけですよ。だから簡単にできてしまっておかしいとなるわけです。粘土を張り合わせたりしてもできるんですね。子どもの頃に父の仕事を見ながら、自分もちょっと遊びでやったりしていたせいで、当たり前にできてしまうみたいなところがあることに気付きました。小さい時から、色んな美術展などを見てきたということと、家に帰れば、父親がものを作ったり、絵を付けたりしていることが、やはり相当プラスになったのかなと思います。
 


 

 

 

 

 

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