このページの本文へ移動する

上出長右衛門窯 上出 惠悟さん、北村 康司さん、柴田 鑑三さん

更新日:2020年2月27日

 

写真左から柴田鑑三さん、上出惠悟さん、北村康司さん。上出長右衛門窯のアトリエで(2019年8月21日撮影)
写真左から柴田鑑三さん、上出惠悟さん、北村康司さん。
上出長右衛門窯のアトリエで(2019年8月21日撮影)

 

したいこと、能美市だったら叶うかも

上出長右衛門窯

上出惠悟さんインタビュー

 

旅籠(はたご)を営んでいた初代長右衛門さんが幕末から明治の中頃にかけ、九谷焼販売に少しずつ動き出し、それを受け継いだ二代の長右衛門さんは卸し専門の商人となって広い販路を確立しました。昭和10年(1935年)に三代目が襲名されたとき「人のつくった焼き物を売っていたのでは自信のある商いはできない」という思いから、窯をおこされたそうです。「九谷焼を本格的に企業化するには、長年にわたって分業化してきた素地づくりと上絵つけを一貫作業にのせなければならない」と世論的に言われだした昭和40年代。それよりさらに早い時期にこの制度を採用し、九谷の伝統に永楽、仁清、古伊万里、祥瑞、さらに中国渡来の古陶器などからヒントを得た独特の味を盛り込んだ九谷焼を生産、古陶器をとおして頭に浮かんだイメージの表現に、納得がいくまで研究と焼き直しを繰り返し、出来上がった湯呑などの実用食器は、伝統に新たな創作をプラスした完成度が高い作品群として人々の前に登場し、数々の賞を受賞。県や町の観光課から「窯元見学ならまず長右衛門で」と指名されるくらいの名所となりました。

そんな伝統をうまく取り込みながら創作活動を続けてきた窯元で生まれ、現在六代目として上出長右衛門窯を担っている上出惠悟さん。その活動に、受験生時代に知り合った2人の友人が参加。伝統ある窯元に新風を吹き込み、新たな活動が日本のみならず、海外からも注目されています。

上出惠悟さん

以下、上出さん:もともと初代上出長右衛門は、この場所、旧寺井町っていうところで旅籠をしていたんですけど、この近くにかつては暴れ川と呼ばれた手取川っていう大きな川があって、当時は橋がなかったので、人々がこのあたりで滞在してたんだと思うんですけど、明治時代に橋がかかって、それで宿場街としての機能がだんだん薄くなっていったときに、うちの旅籠もおそらく暇になってきたんだと思います。それと同じ時期に九谷焼がこの土地で少しずつ盛んになり始めて、輸出などで商人が集まってきて活気づいていた。それで、うちも九谷焼を商売にできないかって初代長右衛門が思い始め、最初は、富山の薬売りに九谷焼を売っていたみたいです。富山の薬売りって全国にネットワークがあるじゃないですか。いろんなところに行商するたび、「今度九谷焼持って来たら買うよ」っていうような人が多分いて、旅籠には当然怪我人や病人も泊まっただろうから、もともと深い交流があったんじゃないでしょうか。薬売りを介して九谷焼を少しずつ売ることからスタートして、二代目から専門的に九谷焼の商売を始めて、今までは仕入れだったのが少しずつ自分たちの製品というか商品を作るようにもなっていって、窯を持ち、職人を雇って、今の業態になりました。

写真上左から二代上出長右衛門さん、赤ちゃんの時に載った惠悟の新聞、四代目夫婦と幼い五代目の家族写真、写真下段は昭和30年代から50年代頃の窯元と働いていた方々の様子
写真上左から二代上出長右衛門さん、上出さんが赤ちゃんの時に載った新聞、四代目夫婦と幼い五代目の家族写真、写真下段は昭和30年代から50年代頃の窯元と働いていた方々の様子

 

能美市で生まれ、金沢の高校に通って、卒業後に東京の大学に進学しまして、5年間東京にいました。僕が帰って来るか来ないかみたいなときって、景気も悪く、九谷焼が売れなくなってきてるけど、それに対して大きな手も打てずに、将来が見えないような暗い状況にありました。家族と同じように、僕が小さいときからいる職人もいて、ずっと近くで見てきたことがこのままではなくなるかもしれないっていうのが、僕自身信じられなくて、もったいないとか残念っていうよりとにかく、“あり得ない”って気持ちでした。

うちってずっと手作りで、創業して140年になるんですけど、もう半世紀以上作り続けている商品とかも中にはあって、僕が小さいときにはいたけれど今はいなくなってしまった職人ももちろんいるし、白黒の写真の中にいる僕が知らない職人たちもいて、そういう人たちがずっと続けてきたこと、自分たちが食べていくための仕事ではあるんですけど、それは同時に、その人の人生の一部であって、それを毎日営みとして続けてきたっていうことが、僕はすごく尊いと思っていて、究極、僕が信じられるのってそういう人の営為というか、継続っていうか、ずっと雨の日も風の日もろくろを回し筆を持ってきたっていう営みで、その営みが今目の前でなくなってしまうっていうのが想像できなかったんですよね。それで急いで帰って来たっていう。なんかもっといろんなことができるんじゃないかなと思ったし、まだまだやってないことがいっぱい残されているような気がして、可能性を感じていました。

デッサンする上出惠吾さん

帰って来て今13年目くらいなんですけど、帰ってすぐに長右衛門窯に入りまして、最初は窯のPRみたいなことを、ホームページを作ったりとかリーフレットを作ったりとか、いろんなところに行って人と会うときに、「実家はこういうところです」みたいなことを紹介したりとかできればいいなと思って始めて。で、少しずつ企画とか商品開発とかにも携わるようになった。それで、数年たったときに、色んな方に応援してもらって自分の会社を作りまして、合同会社上出瓷藝(かみでしげい)という会社なんですけど、そこで長右衛門窯は製造をし、上出瓷藝は販売をするという形にして、今、6年目くらいですかね。それで、少しずつ仲間も増え、北村とか柴田みたいな、10代のころから知っている同級生2人が入ってくれたりとか、高校の後輩とか、同世代の仲間が何人か入ってきてくれたりとか。で、ようやく今までずっと僕が一人で孤軍奮闘というか、もちろん生まれたときからいるような職人も何人かいたので、惠君、惠君って言って応援してくれていたけど、ようやく応援じゃなくて一緒に頑張っているっていうカタチに、少しずつ職人も一緒にやれるようになってきたなっていう感じが最近です。

上出長右衛門窯の方々1 上出長右衛門窯の方々2

成形された招き猫 成形された武者

上出長右衛門窯の方々3 上出長右衛門窯の方々4

上出長右衛門窯の方々5 上出長右衛門窯の方々6

今の時代に手間暇かけて人の手で作らなきゃいけないということはないと思うんですけど、人が使う物なので、人が使う物を人が作るっていうのは当たり前のことかなと思って。でも、それを続けていくのって結構大変なことで、あんまり言いたくないけど、いろいろと時代や生活が変わってきている。そういう中で粘土をこねて器を作って、そこに入れなくてもいい絵まで入れて、それに安くないお金を出して買ってもらった上で、ちゃんと自分たちの可能性を見失わずにそれを続けていくのって、やっぱりそんなに簡単なことじゃなくて。本当にずっと苦しかったし。でも、その蓄積があるっていうことはすごいことだなと思うので、もっと誇りに思ってもいいんじゃないかなって思っているんですよ。古い写真に、僕が好きな写真があって、ここが建つ前の40年くらい前の古い工場なんですけど、その工場で職人たちが自分で作ったんだと思うんですけど、器を手に乗せて何人かの職人が写っている写真があるんです。その写真がすごく好きで、なんかすっごい誇らしげな顔をしてるんですよ。

昔の上出長右衛門窯

みんなに「こんな顔できんのか」って言ったんですけど、自分もできないな、まだって思って。まだ若いのかなあ、とか思うんですけど。でも、多分もっと誇りを持って仕事していいと思うんですよね。で、職人たちがなんかそんな顔になってきたら多分僕も誇らしいし、なんか他力本願に聞こえるかもしれないけど、職人たちが誇りに思わなかったら僕もそんな顔になれるわけないし、僕だけそんな誇らしげになっててもおかしいなと思う。やっぱ手で描くっていうこととか手で作るっていうことって、自分の人生の一部を分けることだと思うんです。その自分の時間がその器に入り込むっていうか、それまで生きてきたいろんないいこととかつらいこともあると思うんですけど、その長い人生から見ると一つの器に入っている時間って一瞬ですけど、その時間が入り込むっていうか、映されるっていうか、火によって焼き固められる気がするんです。で、それが全国に散らばっていろんな人の生活の一部になったりとか、もちろん料理屋さんとかにも行って幸せな時間の一部になるっていう。それは結構いい仕事だと思うんですよね。しかも、それがずっと残るんですよ、焼き物って。今でも遺跡から出土するものって焼き物ばっかりだと思うんですけど。自分たちが死んだ後もずっと残っていくっていう。なんかもっと誇りに思ってもいいんじゃないかなって思うんですよね。

上出長右衛門の四代目上出兼太郎さん。(2019年8月21日撮影)
上出長右衛門窯の四代目上出兼太郎さん。(2019年8月21日撮影)

 

上出長右衛門窯の代表的なモチーフ「笛吹」について

笛吹の下絵

笛吹は僕がとても好きなモチーフで、これがあったから僕も帰って来たのかなって思うくらい自分にとっては大事な絵なんです。それ以外はそんなに大したことないんじゃないかなと思うくらい(笑)。だからさっきも言ったみたいに、営みとしてずっと続けてきたっていうことが何よりも尊いことだなと思うんですけど。笛吹はその象徴のように何世代も描き継がれている絵柄なんです。それに笛吹が持っている雰囲気っていうか、デザインが、なんだかすごく安心できるんですよね。なんでなのかよく分かんないんですけど。その良さをもっといろんな人に知ってもらいたいなと思ってました。でも、当時僕に与えられた時間ってそんなにないと感じてて、ゆっくり時間をかけて良さを伝えるっていうことが一番良い広め方だと思うんですけど、なんかそんなことしてたら窯つぶれちゃうなと思って大胆にアレンジを加えた笛吹を発表しています。

笛吹

笛吹の良さを僕と同じ世代の人たちに向けて伝えるにはどうしたらいいんだろうって思って、それでトランペットを持たせたりとかピアノを弾いてたりとか、笛をより自分たちの親しみのある楽器に持たせ替えればもっと身近に感じてもらえるんじゃないかなと思って、笛吹自体を骸骨にしてみたりとか、スケボーに乗せてみたりとか。それで服屋さんとか音楽関係者とか、割とそういった方たちが面白がってくれて、ちゃんと生きている文化があるところ、日本の伝統だから守らなきゃとか、これはいいものだとか、思わなくても、ファッションとか音楽とか自分たちが感覚的に楽しめる、そういう生きた文化を持った人たちがこれを面白がってくれて。だから、今まで音楽やファッションにお金を使ってきた人たちが、スニーカーとかじゃなくて、湯呑を買ってくれたのは大きいこと。しかも難しいことを抜きにしてです。まさか自分が湯呑を欲しいって思うなんて想像してなかったって言ってくれるんですけど、そういうところに笛吹がスーッと入っていけたので、やっぱり笛吹が持っている、良さというか、ずっと使ってても飽きない普遍性が、時代を超えても心に響くんだなって思いました。そんなガツンと来るわけじゃなくて、お茶みたいなスーッと心に入ってくるような感じ。それが笛吹にはやっぱりあったんだなあと思うし、すごいなあと思います。

いろいろな笛吹

髑髏の笛吹 ブラックライトで光る笛吹

 

今、取り組まれていること。

 

しばらくは、一般の人に向けていろんなご提案というか企画とか商品を考えたりとかしていて。それが一番結実したのは「窯まつり」かなと思うんです。窯を開放して、絵付体験やろくろ体験、普段市場には出せない二等品の特別販売などをしているんですけど、4,000人以上の人がうちの小さな工場に来てくれて今年も結構にぎわったんです。そうやって一般の人にも僕たちの活動が届いているのが嬉しいんです。もともとうちは割烹食器をずっと作ってきた窯元で、そういう料理屋さん、料亭とか料理旅館とかそういったところの食器をずっと作ってきたんですけど。今はまたもう一度料理に向き合いたいなっていう思いもあって。

上出長右衛門窯まつりの様子1 上出長右衛門窯まつりの様子2

上出長右衛門窯まつりの様子3 上出長右衛門窯まつりの様子4

上出長右衛門窯まつりの様子5 上出長右衛門窯まつりの様子6

上出長右衛門窯まつりの様子7 上出長右衛門窯まつりの様子8

割烹食器を出すような料亭とか、そういったところって、若い世代には敷居が高くて九谷焼と同じでちゃんと届いていない。でも今も頑張っているところはやっぱり頑張っていて、料理もいろいろ変わってきています。なので、食器も変わらなきゃいけないなと。食器屋が変わるときって、僕が思い付いたものとか、僕の中から出てきたデザインとかイメージとかもあるんですけど、やっぱりずっと料理と向き合ってきた人たちによって示される部分があるんじゃないかなって思うんです。文化が混じり合った中から生まれるような。なにかそういうことが長右衛門窯がまた一つ変わるタイミングなのかなって思っているんですよ。もちろん一般の人に向けたアプローチとか挑戦みたいなことは今後も続けていくんですけど、同時にそういう料理人の人たちと一緒に、それは日本に限らず別に海外の料理人であってもいいと思うし、海外で日本食を広げている人でもいいと思うんですけど、そういう僕たちが蓄積してきた日本の美意識や窯の文化と、料理人が持っている食文化、そういうものをまた新しく更新できるんじゃないかなと思ってて。今後も変わる部分を恐れずに受け入れて進んでいきたいなって思っています。

インタビューに答える上出惠悟さん

上出長右衛門窯のみなさん

のれん

 

上出長右衛門窯ホームページ
http://www.choemon.com/

 

次ページは、長右衛門窯の生産管理で上出さんを支える北村康司さんです。

 

お問い合わせ先

市長室 広報広聴課

電話番号:0761-58-2208 ファクス:0761-58-2290