このページの本文へ移動する

松井 秀喜さん

登録日:2024年3月31日

松井秀喜さん1976年2月自宅にて

1976年2月 自宅にて

 

松井 秀喜さん

 

小さい時から大きな器。

 

「器が大きい人」というと、どんな人をイメージするでしょうか。「自分に何の利益がなくても、他人のために行動できる人」というものが一般的かもしれません。私欲を封印し、他人のために何かを行うというのは、そう簡単なことではありません。無理をして器の大きい人になろうと思った途端、かえって器の小さい自分に気づかされます。ではどうすれば良いのか。それを知るには、器の大きい松井秀喜さんの生き方から光明をたどれます。
ジャイアンツ時代、父・昌雄さんが幾度となく送ったファックスに、いつも書かれていたことわざ「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)注:1」〜何が起きても前向きに捉える。自分にしかできないこと、自分だからできることをやる。「献身」という自我。心のありようです。
2023年に、ジャイアンツ入団から30年、大リーグ挑戦から20年、そして引退から10年という節目を迎えた秀喜さん。2007年に発行の書籍「父から学んだこと、息子に教えられたこと」の出版プロデューサーを担当した左京純子氏は、「あとがきに代えて」の中で「松井父子の最も素晴らしいところは、どんなときでもどんな人にも、『敬意』を払うことを決して忘れないことです。どんな人にも敬意をもった接し方、意識の深さが、全てにおいて、『ていねい』な生き方に通じ、人の心を打ってしまうのだと思います。」と回想し、「MODESTY〜松井秀喜つつしみ深い生き方」の著者である故・伊集院静氏も最大級の賛辞を送っています。その存在を通して多くの人々に勇気や感動、人間としての生き方を示してきた秀喜さんの「お人柄」をご紹介します。
 

注:1「人間」を“じんかん”と読むこともあります。
この諺の元の話は、中国の古い書物「淮南子(えなんじ)」に書かれています。
中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。
「このことが災いにならないとも限らないよ。」
しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。
長い人生では楽しい事や嬉しい事もあれば、辛い事や悲しい事もあるけれども、何が幸福で何が不幸かは直ぐに決まるものではない。嬉しい時には自己を律して、悲しい時には将来必ず幸せが訪れるものと信じて、毎日を明るく元気に過ごして欲しい。という内容です。
 
 
1979年8月撮影 自宅にて 父:昌雄さんと
1979年8月 自宅にて 父:昌雄さんと

 

 

負けん気から育まれた、
敬意と誠意。

 

小さい頃、兄の背中を追いかけて育った秀喜さん。兄がピアノを習いだすと、自分も習うと言い出しましたが、兄がピアノを辞めると秀喜さんも辞めてしまいます。2歳の後半に兄が父とキャッチボールをやりだすと、自分もやりたいと父を困らせ、なんとか幼な子が使えそうなビニール製のグローブを探し出し、3人でキャッチボールをやりだすと、今度は、兄と同じスピードの球を投げて欲しいと言い出すくらいの負けん気の強さ。それでも父は、親としての振る舞いとして、秀喜さんを一人の独立した人格とみて、敬意をもって接することを心がけてきたそうです。心から愛されて育った子どもは、人を心から愛することができるようになる。秀喜さんの原点は、この親子関係から生まれてきたのでしょう。
兄の背中をそれからも追い続けます。4学年上の兄の友だちと一緒に遊び、稲刈り後の田んぼで野球をやっているうちに、秀喜さんは、誰よりも打球が遠くへ飛ばせるようになってしまいます。兄は、友だちを気にして秀喜さんに左打ちを勧めました。負けん気の強い秀喜さんは、兄に遊んでもらえなくなると困るため、必死で練習したそうです。ここが左打者の出発点となっています。
兄が根上少年野球クラブに入っていたため、小学1年生で兄の後を追うようにクラブに入るわけですが、さすがに幼すぎる理由から退部させられることになってしまいます。ここで秀喜さんの負けん気は「もう二度とチームには入らない」と爆発するのですが、それから4年が過ぎ、5年生で再入部を推薦された時には気持ちの切り替えができていたようです。その年の後半にはキャプテンとしてチームを率い、四番バッターとして活躍した秀喜さんですが、卒業する頃には「すごい飛距離の少年がいる」と地域の野球関係者の間で噂となります。

 

1976年8月 美川大橋近くの公園で 兄:利喜さんと

 1976年8月 美川大橋近くの公園で 兄:利喜さんと

 

成長の転機

 

小学校卒業後は、地元の根上中学校に進学。そこで出会ったのが、自分の人生で“最も厳しい指導者”と語る高桑充裕コーチ。高桑氏は大学時代に学んだトレーニング法を用いて野球部員のトレーニングをしていました。中学入学時には身長170cm、体重95kgという体格となっていた秀喜さんは、ライト側80mの距離にそびえる高さ5mのフェンスを越える場外アーチを描いています。強肩を見込まれ、最初はキャッチャー。2年生の秋の新チームになってピッチャーに転向し、味方のキャッチャーも恐怖を感じるボールを投げ込む少年でした。
「努力できることが才能である。」そういう父の教えのもと、血の滲むような努力を重ね、エースで4番を任されていた試合で転機となる事件が起こります。
春の大会で打ち気満々だった秀喜さんは相手校の投手に初回から明らかなボール球を4球続けられ、悔しい思いから相手投手を睨みつけたまま、バットを放り投げ、視線をピッチャーから外さず一塁方向へ歩き出します。その時、ベンチから飛び出してきた高桑コーチにすさまじく怒られたのです。(審判が割って入るほどの出来事でした)
試合後、高桑コーチの叱責理由として、自分の大切な野球道具であるバットを粗末に扱うやつに野球をやる資格はない。そして敬遠は立派な作戦だ。ルールで許されている。それなのに相手投手を睨みつけ、ふてくされている方がよほどマナー違反だということを聞かされ、納得し反省したことが、その後、チームをまとめるキャプテンとはどうあるべきかを考えるようになったきっかけでもあります。星稜高校時代の第74回全国高校野球選手権大会2回戦で、対戦相手の明徳義塾高校がとった5打席連続敬遠策でも平然と一塁に向かっていった姿勢の原点はここにあります。

 

 旧ジャイアンツ寮  “松井部屋”の畳

旧ジャイアンツ寮  “松井部屋”の畳

この畳は、ジャイアンツの選手が若手時代を過ごしていた旧ジャイアンツ寮にあったもので、秀喜さんが寮生時代に、寮の大広間の一角ですり切れるほど素振りを繰り返したために、ボロボロになってしまった畳です。
旧ジャイアンツ寮では、秀喜さんのひたむきに努力する精神を後輩たちに伝えるために、そのスペースを201号室に改装。その部屋は“松井部屋”と呼ばれ、若手選手たちに刺激を与えるパワースポットとして、大切に受け継がれてきました。
旧ジャイアンツ寮が、2023年に解体されるにあたり、球団からの提案で、一般のファンの方々にも見てもらえるようにとの想いから、松井秀喜ベースボールミュージアムで展示されています。
展示期間:2025年3月まで(予定)

 


お問い合わせ先

市長室 広報広聴課

電話番号:0761-58-2208 ファクス:0761-58-2290