このページの本文へ移動する

九谷焼作家 山田 義明さん

登録日:2023年8月10日

2-01 

 

第二の転機

 次の転機は創造展出品から7、8年たった頃、同会に所属していた故・三代武腰泰山(義之)先生の作品に魅了され、今度は武腰先生に教えを乞いました。そして10人ほどが集まって、写生や色紙に絵を描く“泰生会”が発足したのです。1982年(昭和57)、私が34歳の時でした。またこの時期に山近先生のところでも“研山会”という勉強会ができ、そちらにも参加することになりました。これを機に写生を随分と行うようになり、その年の秋、写生を基本とした“野葡萄図大皿”が日本伝統工芸展に初出品で初入選いたしました。ここから写生を基にした現在の作風が確立していくのです。
 振り返ってみると、いろいろな節目節目に、自分でしっかり動いて次のステップを踏んできたのです。泰生会では週一回の勉強会でしたが、私は1年間一度も休まなかったことを憶えています。武腰先生は会発足後、2年半で早逝されたのですが、その後も会は存続し、20年近くも続き、会からは沢山の日本工芸会の正会員が輩出されました。また、研山会も25年の長きにわたり存続し、多くの作家を生み出したのです。
 

02-22-03 

泰生会に所属していた時の写生


2-04

写生は1982年(昭和57)の1冊目から現在も続いている


2-05

No.29の28ページ目に描かれている「桜」令和2年4月3日と記されている
 

武腰 義之(三代泰山)
(1919〜1984)

1919年12月1日武腰泰之(初代泰山)氏の次男に生まれた。
小学生の頃から父の仕事場の手伝いをして成長、兄善太郎(二代泰山)とともに学校を終えてからも父に師事。修行半ばにして兵役に就くが、1946(昭和21)年5月31日に復員し、陶画業で独立。1ヶ月遅れで復員した兄善太郎とともに九谷焼上絵の研を競ったと言われる。2人ともよく写生をし、日々の散歩や旅の中でスケッチを忘れなかった。敗戦の中から起き上がった文化流動の中で展覧会が開かれるようになって北出塔次郎氏に師事、各種の展覧会入賞をはじめ、個展も開催、泰仙と号した。父泰山の細密で華麗ななかに大胆な割取りで器全体を引き立てる庄三風とともに山野草をモチーフに現代風に創案した創造美術の画風をこなす巧みさがあった。1964(昭和39)年暮れに兄善太郎不慮の交通事故死のあと、三代泰山を襲名し、五彩の美しさを器面いっぱいに展開、その細密で丹精込めた上絵には定評があった。晩年には黒彩(水墨画)をよく修めて染付を好んで着画、色紙や条幅(半紙の半分)にも優れた水墨画や色絵を描いた。この画風はその門弟たちの集まりとして泰生会がつくられ受け継がれている。
1984(昭和59)年9月28日、1か月の闘病生活のあと、65歳で他界したが、病床にあってもスケッチブックを離さず、門弟たちに乞われて水墨画の手本を描き続けていた。
2-06

義之氏晩年の三幅対の松竹梅の作品。(個人蔵) 

 

余白の美

 2つの勉強会の中で写生する機会が増え、また、自分自身でも写生をするようになりました。その頃から公募展には年に4、5回出品するようになり、写生を基にした植物を描くようになりました。写生した中から自然のものをいかに切り取り、九谷の器の中に意匠していくか。それが大きな課題でした。その当時はそういう具象の絵を描く方がたくさんいました。
 また、日本工芸会の重鎮で人間国宝の漆芸家、故・松田権六氏がよくおっしゃっていた“余白の美”を意識するようになりました。ただ、初めの頃は線も硬く、色も原色を使っていてカチカチの作品でした。それで、どうしたら柔らかい自然な感じの作品になるのかと、呉須描きの線を工夫してみたり、和絵の具の中間色を研究したりし始めたのです。
 


2-07

第29回(1982年)日本伝統工芸展 初入選作


2-08

野葡萄図 第68回(2021)日本伝統工芸展(KAM能美市九谷焼美術館|五彩館|蔵)

 

「創造美術会」と「日本工芸会」

 創造美術会では山近先生と同じように陶芸部長、そして代表と職を務めました。代表時にそれまではなかった「内閣総理大臣賞」を創設すべく、地元の代議士のご尽力をいただき実現しました。その第一回の受賞者に山近先生が選ばれたのは大変感慨深いものがあります。
 また、日本伝統工芸展の出品(初入選)は34歳ですから40年も前になります。この展覧会はとても難しく、2013年(平成25)頃までは陶芸部門の入選率が20%前後でした。その後出品者が減りましたが、近年は30%くらいに上がってきています。それでも狭き門には違いありません。私の工房では私が独立した時からずっと1〜3人のスタッフがいましたが、皆さん10年から15年と長く頑張っていただきました。その中から二人が日本伝統工芸展に出品し、私のところに勤めている間に4回入選、日本工芸会の正会員になっています。また、2018(平成30)年には一門で3人揃って入選というとても稀有なことが起こりました。さらに1人は創造展に出品し、新人賞他多数入賞し活躍しています。
 私の長い間の日本伝統工芸展の入選歴の中で、宮内庁お買い上げが6回もあったことは過分のご褒美だったと思っています。


2-09

現在、先生のサポートをされている柴田有希佳さん(日本工芸会 正会員)と

2-10

2005年パリ見本市へ 工房のスタッフと。
左から 矢野つや子さん 新田智子さん(創造美術会 会員)平野由佳さん(日本工芸会 正会員)

 

孤高の人、藤本能道

その後、今日まで「創造展」「日本伝統工芸展」そして地元の「伝統九谷焼工芸展」は欠かさず出品し続けてきました。
日本伝統工芸展に3、4回入選した頃でしょうか。会場で故・藤本能道氏から講評をいただく機会がありました。先生はまだ重要無形文化財保持者(人間国宝)になられる前でしたが、陶芸界ではトップの存在でした。私は緊張のあまり、直立不動で、どういった内容の話をされていたかは定かではありませんでしたが「君の昨年の作品は確か〇〇だったよね」と昨年の私の作品を覚えていてくださったのです。賞をとったわけでもないのに、まことに感慨の極みでした。伝統工芸展出品時から先生の作品が好きで憧れていた私にとって、藤本能道氏は第三の師であり、孤高の人でもありました。
 

藤本能道(1919〜1984)

1941年12月、加藤土師萌に師事。1944年には東京美術学校教授となった富本憲吉の助手を務めながら、富本が習得した九谷焼系の色絵磁器の技法を学んだ。1946年には日展、国展に初入選するが、終戦に伴い工芸技術講習所を退所し、京都に移る。1950年から1956年まで、鹿児島市に転居。鹿児島市商工課専任として工芸研究所に勤務する。1956年、京都市立美術大学専任講師になる(のち助教授)。1956年日本陶磁協会賞、1965年日本工芸会東京支部展受賞、同年ジュネーブ国際陶芸展で銀賞(「赤絵大壷」)。その後も日本伝統工芸展等で作品を発表した。1963年、東京藝術大学助教授となる(のち教授)。1973年 東京都青梅市梅郷に築窯する。独自の描画方法、「釉描加彩(ゆうびょうかさい)」を確立。その技術が評価され、1986年4月28日に重要無形文化財「色絵磁器」保持者(人間国宝)に認定される。東京芸術大学教授を経て、1985年から5年間、学長を務めた。1991年、勲二等旭日重光章受章。1992年5月16日、東京都葛飾区で逝去。(ウィキペディアより抜粋)

 


 

お問い合わせ先

市長室 広報広聴課

電話番号:0761-58-2208 ファクス:0761-58-2290