山上組十村屋敷跡
来丸(らいまる)町にある「山上組十村屋敷跡(やまがみぐみとむらやしきあと)」には、当時の面影は残っていないが、江戸後期に山上組十村だった太田家の墓所がある。
十村(とむら)は、加賀藩の農政制度「改作法(かいさくほう)」における管理監督役であり、山上組(やまがみぐみ)には岩本(いわもと)・灯台笹(とだしの)・宮竹(みやたけ)・岩内(いわうち)・来丸・坪野(つぼの)・金剛寺(こんごうじ)・徳山(とくさん)・辰口(たつのくち)・徳久(とくひさ)など37ヶ村が属した。寛永年間に土室(つちむろ)村(川北町)の六郎兵衛(ろくろうべえ)が、最初の十村として知られる。
後に山上組十村となる太田家は、明暦元年(1655年)に初代文兵衛が山粟津組(やまあわづぐみ)十村を命じられ、埴生(はにゅう)村(富山県小矢部市)から波佐谷(はさだに)村(小松市)に移住した。その後、安永5年(1777年)に5代豊次(とよじ)が波佐谷村で山軽海組(やまかるみぐみ)十村となり、寛政5年(1793年)に6代文兵衛が山上組十村に命じられたことで、来丸村に移住した。文政2年(1819年)に7代清右衛門(せいえもん)、文政7年(1824年)に8代文三郎が十村を引き継いだ。
8代文三郎は、天保7年(1837年)に「山上組」から「来丸組」へと改称した他、俳人「菊上(きくじょう)」として、加賀千代女(かがのちよじょ)とも交流のあった人物だった。弘化3年(1846年)に記した『山上組三十八ヶ村草高免付品々帳(やまがみぐみさんじゅうはっかそんくさだかめんつけしなじなちょう)』(能美市指定文化財)には、十村として支配した村々の百姓ごとの石高などが詳細に記載されており、貴重な資料である。
明治維新の廃藩置県(はいはんちけん)で加賀藩が廃止されると、太田家は十村役を解かれ、9代豊次の頃には持高は7石に激減し、衰退した。その後、金沢に移住したため、昭和12年(1937年)には屋敷を解体した。
屋敷は、通称「中ん谷(なかんたに)」と呼ばれる集落の南西側にあり、1,300坪の広大な敷地に、大門・土蔵2棟・庭園を備えた平屋建ての屋敷だったとされる。敷地西方の山裾には太田家の墓所があった。現存する骨堂は、平成11年(1999年)の辰口町役場(現在の能美市役所本庁舎)の新築移転の道路工事に伴い、約20mほど北東側の現在地に移転した。十村の様相を知る史跡となっている。