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虚空蔵山城跡

更新日:2022年3月30日

虚空蔵山城跡

 和気(わけ)町・寺畠(てらばたけ)町・舘(たち)町にまたがり、能美丘陵中心部の西寄りに虚空蔵山(こくぞうやま)があり、戦国時代に山頂部分を中心とし、尾根つたいに「虚空蔵山城」が築かれていた。白米(はくまい)城・和気山城・舘城ともよばれる。

 最初の城主は、戦国時代の富樫幸千代とされている。幸千代は兄富樫政親(とがしまさちか)と加賀守護職の座をめぐり応仁の乱で対立し、文明5年(1473年)に金剛寺行松(こんごうじゆきまつ)・浄土真宗高田派と結んで、政親に勝利した。しかし、越前に逃れた政親は浄土真宗本願寺派と結んで、文明6年(1474年)に虚空蔵山城を攻めた。幸千代側には莇生(あぞ)城主の阿曽(あぞ)家が味方したが、本拠地蓮台寺(れんだいじ)城(小松市)が陥落したため、幸千代は越中へ逃れた。

 その後、加賀一向一揆勢の拠点となり、天正3年(1575年)に織田信長の命を受けた佐久間盛政(さくまもりまさ)軍が攻めてきた際は、荒川市助(あらかわいちすけ)・中川庄左衛門(なかがわしょうざえもん)・永山治郎(ながやまじろう)が籠城して対抗したものの、落城した。

 城郭は、標高約50mの山麓から138mの山頂にかけて築かれ、東西約600m、南北約500mの範囲と推定され、主要郭は山頂平坦地の本丸を中心に、7ヶ所の平坦地を放射線状に伸びる尾根筋に配しており、二の丸・馬場・大手門があった。

 本丸・二の丸・大手門には土塁(どるい)や堀切(ほりきり)が造られた。また、大手門には麓から攻撃しにくいように石塁を設け、二の丸・本丸には喰違虎口(くいちがいこぐち)などの工夫がなされている。築城当時の遺構が現存しており、北陸の中世山城の特徴を伝える城跡で、加賀一向一揆の始終を象徴する史跡である。

能美ふるさとミュージアム
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