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牧野孫七の墓

更新日:2022年3月30日

makino

 寺井(てらい)町には、幕末に十村役(とむらやく)として活躍した「牧野孫七(まきのまごしち)の墓」がある。十村は、加賀藩の農政制度「改作法(かいさくほう)」における管理監督役であり、牧野家からは寛永年間に初代伊右衛門(いえもん)、寛政年間に6代伝右衛門(でんえもん)、文政年間に7代宗右衛門(そうえもん)、弘化年間に8代孫七などを輩出した。

 牧野姓を名乗るのは7代宗右衛門からで、8代孫七は文化13年(1816年)に7代宗右衛門の長男として生まれ、十村役を継いだ。

 牧野家が代々勤めた北板津組(きたいたづぐみ)には、寺井・佐野(さの)・湯谷(ゆのたに)・高堂(たかんどう)・福岡(ふくおか)・赤井(あかい)・朝日(あさひ)・粟生(あお)・秋常(あきつね)・上開発(かみかいはつ)・下八里(しもやさと)など35ヶ村(現在の能美市・川北町・小松市域に点在)が属し、5千石分を支配する大十村となった。その豪奢な生活は、商家を凌ぐほどであったとされる。

 屋敷は、寺井山(通称「牧野山」)南西部を切り拓いた中腹の豪壮な平屋建てで、土蔵・長屋などが建ち並び、銘木を植え、自然に近い築山(つきやま)・曲水(きょくすい)を持つ庭園も備えた。麓には使用人の屋敷(下屋敷)10軒ほどあり、杉並木の坂を登り、茅葺(かやぶき)の十村門に入って出仕した。

 8代孫七は、十村在任中に九谷庄三(くたにしょうざ)の支援をして、再興九谷焼(さいこうくたにやき)の彩色金襴手(さいしききんらんで)の完成に貢献したり、自らは俳句を嗜み、地方文化の担い手として活躍した。

 また、毎年のように発生した手取川(てどりがわ)洪水で凶作となった際には、田畑復旧のために私財を投入し、河川敷の新田開発(しんでんかいはつ)の功績を残した。しかし、明治維新の廃藩置県(はいはんちけん)で加賀藩が廃止され、十村役を解かれたこと、それまでの米納から金納になったこと、田畑の所有権をめぐる訴訟が起きたことが影響し、牧野家の没落を招いた。明治維新の大きな流れに翻弄された8代孫七は、明治13年(1880年)に没した。

 墓は寺井町墓地の中心に建立され、幕末から明治維新までの十村牧野家の歴史を知る史跡である。

能美ふるさとミュージアム
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