宮の嶋旧蹟
牛島(うしじま)町の集落は、中世まで現在の集落の南西の端にあり、近くの大長野(おおながの)町の南東の「宮の嶋旧蹟(めんのしまきゅうせき)」の地にあった。
通称「宮の嶋」にあった集落は、低地により度々大きな水害に遭ったため、集落の家々や神社を「宮の嶋」から北東方面の現在の高地に移した。集落周囲に竹を植えて水難を防いだといわれている。牛島町に現在も「薮島(やぶしま)」の別称があるのも、竹藪をめぐらせていたことが由来とされる。
また、中世まで京の南禅寺(なんぜんじ)の荘園だった得橋郷(とくはしごう・うはしごう)の中心地が宮の嶋周辺と推定され、かつて宮の嶋にあった得橋神社の石柱が遷座先の牛島八幡神社境内にある。
旧蹟には石廟と石柱碑が建立されており、かつての集落の中心あたりで、氏神が鎮座した場所といわれている。
宮の嶋周辺には、オボクデン(御仏供田)・アミダ(阿弥陀)・ホトケダ(仏田)・オツブダ(御坪田)・クイバシ(杭橋)・シノマチ(四ノ坊)など神社仏閣や荘園に関わる地名が残されており、多くの人々が暮らしていた集落の名残がある史跡となっている。
この伝承を裏付けるように、平成7年(1995年)から平成9年(1997年)にかけて行われた宮の嶋南東側の県道小松インター八里(やさと)線の建設工事に伴う発掘調査で、縄文時代から室町時代まで連綿と営まれた集落の跡「牛島ウハシ遺跡」が発見された。
牛島ウハシ遺跡からは、中世の掘立柱(ほったてばしら)建物や井戸などの遺構だけでなく、中世遺物として、田下駄・漆椀・漆皿・箸などの木製品、越前焼・珠洲焼・青磁(せいじ)などの土器類も数多く出土した。特に、中世の井戸から発見された箸状木器1,157点の出土から、中世には相当数の村人が生活していたと推定される。