「北国街道」を通じて学ぶ、能美市の歴史旅!
登録日:2023年2月7日
能美市にはかつて「北国街道」と呼ばれた街道が通っており、現在もなおその街道の名残をとどめる場所が存在しています。
その場所を巡って能美市の歴史や文化を学んでいただけるコースをご紹介します!
START!
手取川と共に歩む町 粟生宿・粟生の渡し |
手取川大橋(能美市側)には、「粟生の渡し」の説明板があります。
現在宿場跡は残っていませんが、今の粟生(あお)町あたりには「粟生宿」と呼ばれる宿場が設置されていました。粟生宿が設置されたのは、慶長15年(1610年)と言われています。宿場近くには手取川の舟渡し場「粟生の渡し」があり、対岸の水島宿(白山市松任地区)と連携して舟渡しを行っていました。粟生側は舟3艘を常備し、旅人や荷物を運搬していました。
「粟生の渡し」は、春の雪融けや梅雨の時期に手取川が増水し、通行不可能という意味の「川止め」のお触れが頻繁に出されたことから、北国街道の難所の1つとされていました。橋を架けなかった理由として、手取川の水流に橋が耐えられないことを想定していたため、また、金沢の南側からの敵(徳川将軍家の一族、福井藩を想定)の侵入を防ぐためとされています。
川止めとなった場合の手段として、(1)下流の湊村(白山市美川地区)で渡り、水島宿へと迂回する方法、(2)粟生宿で増水が収まるまで待機する方法がありました。増水が収まるまでは数日を要するため、粟生宿に滞在する旅人も多く、そのおかげで粟生宿は繁栄したと考えられています。
県内唯一の一里塚 吉光の一里塚 |
一里塚とは、慶長9年(1604年)江戸幕府が着手した街道整備事業の一環として築かれたものです。江戸日本橋を起点として、街道の両側に樹木を植えた塚が1里(約4km)ごとに設置され、どれくらい歩いたか、街道から外れていないかなど旅人の道標としての役割を果たしています。
能美市域を通った北国街道は、東海道・中山道などの五街道に次ぐ脇街道とされ、多くの旅人が往来しました。
金沢方面からの北国街道の順路は、水島宿(白山市)の一里塚を経て、手取川を越え、粟生宿に入るものでした。その後、吉光の一里塚を通り、寺井宿に入り、長田(小松市)の一里塚を経て、小松城下に至りました。
当初、一里塚は粟生宿にありましたが、寛文10年(1670年)の粟生村往還(北国街道)の新道付け替えによって、粟生宿の南西方面の吉光を通る道に移設したとされています(『寺井町史』より)。街道の変更は手取川の氾濫が影響したと考えられます。
街道には松の並木道に対し、一里塚には丈夫に根を張る榎(えのき)が採用され、南北1対が植えられました。しかし、明治14年(1881年)の手取川洪水によって北側が流失。残る南側は手取川最大の氾濫とされる昭和9年(1934年)の手取川大洪水には耐えられたものの、塚は削られ、植樹された榎の根が剥き出しとなりました。
幾度の水害に耐え、石川県内に現存する唯一の一里塚として、昭和14年(1939年)に石川県指定史跡に指定されました。
九谷焼へつながる町 寺井宿 |
【ガイドマップ】三十一辻てら散歩ルート(1枚目)(633KB)(jpg イメージ)
【ガイドマップ】三十一辻てら散歩ルート(2枚目)(599KB)(jpg イメージ)
寺井には、藩政時代に物資の集積地として加賀藩の年貢米を収納する蔵が置かれていました。そのため、人の従来が多くなり茶屋や宿屋が立ちはじめ、宿場町として栄えました。
その後、九谷庄三(くたにしょうざ)が寺井に窯を築き、多くの名工を育て九谷焼上絵の礎をつくっていきました。九谷庄三の九谷焼は、細密な線描きと多彩な色使いを駆使した「彩色金襴手(いろえきんらんで)」という技法で、その絢爛豪華な美しさは、明治のはじめから大正時代にかけ、寺井の綿野吉二(わたのきちじ)ら貿易商らの尽力により、万国博覧会を通じて海外から高い評価を獲得し、「ジャパン・クタニ」と呼ばれ、神戸・横浜の港から世界へと渡っていきました。こうした九谷庄三や貿易商たちの功績によって、寺井は九谷焼の生産地として一躍脚光を浴びるようになりました。
その面影は今の寺井の町にも残っており、寺井の三十一辻(みそひとつじ)の要所要所で感じることができます。
GOAL!
北国街道を通じて、 能美市の歴史と今との違いを感じてみてください♪
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