俳人来首の墓
はいじんらいしゅのはか
更新日:2025年8月28日
江戸時代後期に、既白(きはく)・竜石(りゅうせき)・来首(らいしゅ)といった俳人の親子がいた。
既白の三男である来首は、宝暦3年(1753年)に生まれ「夏炉庵(かろあん)」とも号した。妻は小松町医岸来庵(きしらいあん)の娘。俳人として活躍し、加賀藩の儒学者金子鶴村(かねこかくそん)らと交流した。著書の『寝覚(ねざめ)の蛍(ほたる)』は、宝暦年間から文化年間の加賀地方の出来事を記したもので、当時の社会の様子を伝えている。
墓石に刻まれた「文政九年■八月廿七日」は、来首の命日と考えられる。
墓は、義弟(岸来庵の子)の加賀藩本多家の侍医鈴木柳崖(すずきりゅうがい)によって寺井山に建立後、歴史民俗資料館前に移設されていた。