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九谷焼作家 山田 義明さん

登録日:2023年8月2日

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したいこと、能美市だったら叶うかも

九谷焼作家

山田 義明さん

「一生懸命」が臨界点を突破し
「猪突猛進」に達するまで。


「勢いにのりすぎると畫きすぎる。
控え目に品よくと思えば つまらなさが目につく。
実写にすぎれば曲がなく 文様にすぎれば力がない。」

 
 これは山田義明さんが第三の師と仰ぐ、藤本能道氏の作品集「陶火窯焔(とうかようえん)」におさめられた一節です。26歳から作家を志し、50年にわたり空間が生む余白の美と草花の描写を白磁に描き続ける山田さんも、まさにこの境地での作家活動なのだと思います。
 山田さんの青少年時代は、九谷焼産業も大量生産時代の真っただ中。その中で将来への危機感を抱き、結婚し、子どもが生まれた状況の中でも、昼間に働いた後、夜間は作家を目指し、技術と作品に向かう姿勢を一から学びます。そして着実にスキルを磨き、展覧会出品へ挑戦し続けてきました。
 上絵技術や思想を惜しみなく伝授し、山田さんを支えてきた二人の師の存在。その時受けたご恩を返すかのように、山田さんもまた制作の傍ら、自分の技術やものの見方を次世代へと繋ぐ活動をおこない、九谷焼の魅力と文化を伝承しています。
 そのお人柄から、多くのファンを持つ山田さんは、自らを「一生懸命な性分」と語ります。しかし、若かりし頃の2年間、自宅での修行の様子を傍らから見ていた故・山近剛氏の奥様は、当時を振り返り「猪突猛進でしたよ」と笑います。
 さて、ストレスやエネルギーが溜まった結果、物事が急激に変化する状態を「臨界点に達した」と表現することがあるように、これまでの度重なる一生懸命な挑戦が、臨界点を突破し猪突猛進に達することで50年の歳月を、がむしゃらに突き進んできた山田さんのお人柄が、今回のインタビューで詳らかになりました。
 

私が九谷焼の仕事に就いたきっかけ

 私は高校卒業後、小さな印刷会社に勤めていました。そこでは営業をさせられ、それが性に合わず、1年半で辞めてしまいました。当時20歳で若かった私は北海道へと旅に出ました。約1ヶ月の放浪の旅です。(親に行き先は告げずに出ましたが、家出ではありません)
 稚内方面を除く北海道は全て周りました。ヒッチハイクをしてユースホテルに泊まる旅でしたが、当時はそんな若者がたくさんいました。途中、帯広近くの大きな農場で10日間程のアルバイトも経験しました。その農場は乳牛が100頭程、畑(じゃがいも、小豆、デントコーンなど)が200町歩ある大きな農場でした。当時はまだ機械化が十分に進んでいなく、人手が必要な時代だったので重宝がられました。

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当時の写真を眺める山田義明さん

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1ヶ月の放浪生活で滞在した帯広の農家の写真

 放浪の旅から帰り、「さて、これからどうしようか」と考えていたところ、農協さんなどからお誘いもあったのですが、結局父の仕事を手伝うことにしました。私は小さい頃、本家から分家に養子に入ったので、父(養父)は跡を継ぐことを望んでいました。父の仕事は九谷焼と言ってもハンコを押して絵付けをする大量生産の仕事です。当時はまだ佐野に住んでいて100軒余りある九谷焼職人は皆、このハンコ絵描きでした。旧寺井町が九谷焼の主産地で問屋も職人も多く、その中でも佐野は赤絵の水金もの、牛島が青九谷、長野が洋絵具の水金もの、そして寺井が手描きの作家と住み分けられていました。毎日、毎日、ハンコを押す大量生産の仕事です。

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当時作業していたハンコでの製品を説明する山田義明さん

 そのさなか、24歳の時に養父母が相次いで亡くなってしまいました。遊んでばかりはいられなくなったのです。当時は大変忙しく、一生懸命働き続けることになりました。私は、性分と言いましょうか、何かに取り組むと一生懸命になるようです。良きも悪しきも、つまりどうでも良いことでも一生懸命になる癖があるのです。しかし、この時期の一生懸命は後々の大きな自信になったのです。

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友人とドライブへ行った22歳の頃(1970年)

 

二人の師、山近剛先生と武腰義之(三代泰山)先生

 養父母が亡くなった翌年に結婚し、長女が生まれた26歳の時、このままハンコものの仕事ばかりをしていて良いのだろうかと悩みました。そして、一念発起して手描きの勉強を始めようと故・山近剛氏にお願いして師事しました。当時、先生は学校の教師をされていて、私は朝8時頃から夜7時までは普通に仕事をし、そこから夜10時まで、週5回程2年間通いつめました。
 私は赤絵(赤牡丹孔雀)のハンコものばかりやっていたので、青九谷の手描きは初めてでした。その青九谷のイロハを教えていただいたのです。呉須描き、青九谷の色、小紋など、青九谷全般です。今思えば、夜の団らんのひと時、週5回も2年間通ったことは、ご家族の皆さんには大変なご迷惑をおかけし、申し訳ない気持ちでいっぱいで、心から感謝するばかりです。やり始めるとがむしゃらな一面が出るのです。
 その頃、先生は創造美術会に所属していて、勧められて創造展に出品するようになりました。これが作家への第一歩でした。私が27歳の時です。私にとって原点と言うべきものは山近先生に師事し、創造展に出品したことです。創造美術会は在野の小さな美術団体ですが、勉強というものは小さくても大きくても関係なくできるものです。それから次につながっていきます。

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山近剛回顧展(2023年)の会場で内閣総理大臣賞受賞作品「野に咲く  花器」を囲み山近剛氏の奥様と。
奥様は当時を振り返り「本当に大変でした」と、一瞬、しみじみとした表情に。

 

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山近剛
(1930〜2020)

佐野町の九谷焼商の家に5人兄弟の末っ子として生まれた。幼い頃から焼き物に携わり、小学校の帰りには近所の上絵付屋で彩色やゴム印押し、窯たきなど、1年余り手伝いをした。現在の金沢美術工芸大学在学中には、北出塔次郎氏、武腰善太郎氏 (二代泰山)に師事、卒業後は小中学校で美術教諭をしながら個展を開催した。1972(昭和47)年、創造美術会が陶芸部新設にあたり創立委員となり、以降創造美術会を中心に展覧会に作品を出品する。
1979(昭和54)年に結成された九谷焼上絵研究グループ 『研山会』において、これまでに九谷焼の職人や作家を目指す百人余りに指導を行った。「個性のある後継者を」と、新しい九谷焼を求め互いに研鑽していた。また自宅の一室を使い、一般向けの陶芸教室も行っていた。作家として、美術教諭として、指導者として、多忙な日々を過ごしていた。山近剛の制作の原点には、森一正との出会いがあった。身近な草花や花鳥をテーマに、自然に親しみ多彩な色絵九谷に挑戦した。写実を目指しつつ四季折々の素朴な葉の色、愛らしい鳥の仕草をありのままに写した。
2014年(平成26年)第67回創造展 内閣総理大臣賞受賞 


 


 

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